’遅くなっても、何もしないよりまし’このFPのインタビュー記事は、インタビュー直後ではなく、後年(2019年5月)、掲載・翻訳されたものである。スルヤ・ボナリー、氷上に輝く情熱的な太陽フランス選手権シングル9連覇、欧州選手権シングル5連覇(1991−1995)。世界ジュニア・シニア選手権での金賞・銀賞は言うまでもない。女子フィギュアスケート界の覇者スルヤ・ボナリーは、そのような栄光への途上で、立ち止まることをしない。彼女は、プロツアー集団の中に身を転じる。例えば、同じフランス人、フィリップ・カンデロロのツアーへの参加のように。そこでは、彼女が生み出した技、あの“ボナリー飛び”、一本足で着氷する大胆な一種の宙返り技法であるバックフリップを、果たして見せてくれるのであろうか?フラン・パルレ:いつ頃から滑り始めたのですか?スルヤ・ボナリー:小さい時からです。一歳半頃だったと思います。母が教えてくれたのです。母は、体育教師をしていて、生徒達をいろんな所に連れて行っていました。私は、10歳までに、あらゆるスポーツをやりました。陸上だったり、体操だったり、飛び込みだったり。母が生徒達とやっていたこと全て、ウインドサーフィンもやりましたね。母は、どこへでも私を一緒に連れて行ってくれましたから、スケートもこんな感じで始めました。それから後は、体操とスケートに絞っていきました。フラン・パルレ:現在、トレーニングのために、どなたかコーチについていらっしゃるのですか?スルヤ・ボナリー:コーチは、私の母です。現役時代は、他のコーチ方もいらっしゃいましたが、母は、常に私の側にいてくれました。フランス代表チームやハイレベル競技向けのコーチがあてがわれた時も、いつも母はそばにいました。フラン・パルレ:貴女はどうやって体力、精神力を養っていらっしゃるのですか?スルヤ・ボナリー:以前、アマチュア時代は、体力作りに大いに時間を費やしました。プロに移ってからは、難しくなりましたね。常に、旅をして移動しているからです。よく言われるように、プロになったら、どんな条件のもとでも、滑らなければなりません。氷の状態が悪くても、飛行機が揺れようと、長時間にわたる旅であろうと、そんなことは言い訳にはなりません。実際、厳しい世界です。しばしば、長いツアーに出ます。一回のツアーが4か月も続くことがあります。ひと月目は、なんとかなります。出発前に、鍛えてあるので、エネルギーが蓄えてあり、基礎体力も残っています。問題は、3か月後、その時が本当に難しいのです。ツアー中は、大抵殆どの時間、母が一緒に付いていてくれますので、共に技術を磨きます。例え時間が少ししかなくても。常に母が側にいてくれて、上手くいかないことを修正し、限界を超えて事故につながらないようにします。いつも自己管理に気をつけています。フラン・パルレ:アイスショーに話が移りますが、フィリップのツアーに参加したいと思われた動機は?スルヤ・ボナリー:フィリップとは、良い友達関係にあります。お互いに長い間よく知った上で、今なお、一緒に仕事を続けています。我々二人にとっても、観客にとってもいいことだと思います。アメリカ合衆国では、実際、全部のショーに一緒に出演しました。彼は、本当に、私なんかよりも断然意思が強く、自分自身のツアーを立ち上げることを選びました。フィリップは、彼自身の興業を、自らのお金でスタートさせたいと思ったのです。本当に、リスクのある仕事ですが、彼はそれに挑戦しました。私は、こんなリスクをとりたいとは思いません。フラン・パルレ:貴女の場合、一年を通して、ツアーは何回位ありますか?スルヤ・ボナリー:一概にはいえませんが、今年は、かなり低調な年でした。極めて暇な年だったと言えます。オリンピックの前年だったからです。スケート業界では、オリンピックの前年は、調子がよくありません。活気を取り戻すためには、来年2月のオリンピックを待たなければなりません。通常3月から、4か月のツアーが始まります。それまでの間、私は、プロ選手たちの競技試合に参加します。例えば、11月8日の試合がそうです。フィリップと一緒に、チーム対抗試合に出場します。フラン・パルレ:貴女にとって、フィギュアスケートは、芸術ですか、それともスポーツですか?スルヤ・ボナリー:両面があります。それだから、皆スケートが好きなのです。バレエにみられるように、ダンスのみ、クラシックダンスのみのような芸術面しかないのではありません。それは、より高く、より大きく、より速くといったように、常に記録をぬりかえねばならない、チャレンジ・スポーツの一種です。芸術とスポーツの両面が上手くいった時は、最高です。フラン・パルレ:転倒したり、衝突したりする危険性が常にあります。水恐怖症があるように、スケート走者にとって、氷恐怖症はないのですか?スルヤ・ボナリー:ありません。小さい時は、ありましたけど。始めたばかりの時は。でも、もし氷が怖ければ、スケートをお薦めしません。転倒は、スケートにはつきものです。チャンピオンになっても、転倒とは常に背中合わせです。確かに、こつを心得ていれば、転倒を回避できるかもしれません。でも、何時間も何時間もトレーニングしたとしても、大切な日に、ここぞという時に、少々バランスを崩した途端、その適切な技を思いつかず、転倒してしまいます。フラン・パルレ:貴女は、ソロで滑っていらっしゃいます。ソロを選んだ理由は?スルヤ・ボナリー:選んだわけではありません。もちろん、スケートを始めたときは、誰でも一人です。それから、数年経験を積むと、たいてい、時には、ペアで滑りたくなるのです。ただし、自分より背が高くて、筋肉逞しい、ほぼ同年輩の男の子がいればの話です。チャンスがあったらそれもいいかも知れません。ペアはそんな風にして組むのです 。私はというと、その当時は相手が誰もいませんでした。でも、7歳から11歳にかけて、フランスではニースで、ペアで滑っていました。でも、パリに出て来たのをきっかけに、ペアを辞めました。1989年から1993年までは、ペアで滑っていたのです。ペアでシニア・フランス選手権で優勝したこともあります。その後、スケート連盟が、ペアを続けることを好まなくなりました。パートナーは、私よりも年長でしたから、生計のことを考えなくてはならず、結局のところ、、、、、、、でも私は、ペアを組むことは、大好きです。フラン・パルレ:貴女は、アイスショーを選択なさったわけですが、振り付けはどうしていらっしゃいますか? 振り付け師と組んで仕事をしていらっしゃるのですか?スルヤ・ボナリー:時と場合によります。大抵の場合、私達自身の振り付けを持参します。振り付けは殆ど変更されず、主催者は、彼等のショーの中に、私達の演目を組み入れてくれるのです。フィリップの場合も同様ですが、ただ彼が他と違うのは、オープニングとフィナーレの演目を皆で一緒に考案しなければならない点です。ですから、私達スケーターは、ショー初日の数日前か前日に、その演目を仕上げるために、彼と練習を重ねます。東京、2002年3月インタビュー:エリック・プリュウ翻訳:井上八汐
プロフィギュアスケーター、スルヤ・ボナリー
投稿日 2019年5月27日
最後に更新されたのは 2019年6月14日