フラン•パルレ Franc-Parler
La francophonie au Japon

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コゼ、スイス人BD(バンド・デシネ)作家、<ジョナタン>
投稿日 2014年3月15日
最後に更新されたのは 2023年5月25日
コゼ:バンド・デシネでたどる旅の数々
 
1950年にローザンヌで生まれたスイス人バンド・デシネ作家ベルナール・コザンディは、コゼというペンネームを使って、作品から作品へ彼の分身である<ジョナタン>を描く。その旅は、自分の内面をより深く探検するための機会を提供するものであり、道中には、サン・ミッシェル未来賞やアングレーム国際マンガ祭のグランプリに輝いている。
 
© Maghen - Cauvin

フラン・パルレ:貴方は広告畑を歩んでいらっしゃいましたね。
コゼ:ええ、そうやって色々仕事を学んで来ました。バンド・デシネのための学校も養成所も何一つありませんでしたから。
 
フラン・パルレ:それは貴方のお仕事にどのように役立っていますか?
コゼ:大変役立ちました。グラフィックデザイナーとしての4年間の修行中に、コマを組立て、それを分かりやすくする方法を学びましたから。従って、正確にはデッサンを学んだというのではなく、表面の構成の仕方を学んだということになります。そのことは今でも大いに役立っています。
 
フラン・パルレ:貴方の主人公<ジョナタン>は、フェティッシュ(道祖神)とも言えますが、それをスケッチで描く代わりに、言葉で端的に描写して欲しいと言われたら、貴方だったらどう表現なさいますか?
コゼ:それは難しい質問ですね(笑い)。彼は、人間の根源的な問題の解決を求めて旅をする若い西洋人で、我々の中に多くみられるといいますか、よくある若者の姿だと私は思います。そして、特殊な点は、このシリーズの当初にあって、彼は部分的に記憶喪失をしているということです。ですから、彼の人生は一部失われています。彼はそれを分かりたいと努力します。
 
フラン・パルレ:貴方はこのシリーズを1975年に始められました。その時代は、多くの西洋人が何かを求めてアジアに向け出発しました。貴方の場合は?
コゼ:ええ、そうです。同じく、私もあの精神に完全に浸っていました。でも、バンド・デシネの世界では、それは斬新なことでした。不思議なことに、バンド・デシネの方が時代精神に遅れをとっているかのようでした。タンタン誌では、ジョナタンは一種の驚きとして、新しい人物像として受けとられましたから。一方、人々の気持ちの中では、時流に乗って、貴方がおっしゃったように、ブームになっていたのです。カトマンズやインドに旅立つことがね。でも、バンド・デシネでは、全く新しい試みでした。似たようなものは他にありませんでした。
 
Pour Franc-Parler

フラン・パルレ:貴方は、主人公をアジアに旅立たせる選択をされました。他の大陸に出発させることも出来たのですか?
コゼ:私の親近感からアジアにということになったのです。その上、貴方がさっきおっしゃったように、あの時代の風潮ということもあって、真実を求めて、ほかの土地よりもアジアに旅立たせたのです。親近感というものがどこから生じるのか時にはよくわからないものですが、私の場合は、それは読書や、沢山の事に起因したと思います。そしてそのあとは、自分自身で確かめようとしたのです。
 
フラン・パルレ:シリーズ開始から40年近く経つのに、いまだ時流にかなっていますね。
コゼ:本当に信じがたいほどです。
 
フラン・パルレ:どうしてなのでしょうか?
コゼ:そうですね。彼は犬と反対の歩みをしているからでしょう。彼は、我々よりも7倍ゆっくりと年をとります。それは私が考案したスタイルです。そうはいっても、彼も老いてはいきます。全く年を取らない主人公も数々ありますからね。でも<ジョナタン>は、我々よりゆっくりと年をとるのです。
 
フラン・パルレ:貴方はカラリストでもありますね。貴方は全作業をご自身でなさるのですか?それはまたどうしてですか?
コゼ:全ての仕事をすることが出来るということは至上の贅沢というものです。そこには、枠組みとか文字書きとかいったとても目立たない仕事全部を含みます。私は主人公のデッサンのみを描くとか、15人もの助手を雇って、一人は車、他の人は家、別の人は文字といったことはやりたくないのです。全てに関わるということは楽しいことですよ。
 
フラン・パルレ:色彩はかなり暖かい色をお使いですね。それは、旅して来た国々の影響によるのですか?
コゼ:そうです。色彩は、始めはテーマによって左右されます。次に、色彩を表現するうえで、一種の方法があります。デッサンに於いても同様のことがいえます。どんな写実的なデッサンでも全部は描きません。もっともスーパーレアリスムのデッサンの場合は別ですが、それでも全部描くことはないでしょう。ともかく、バンド・デシネでは、全てを描くことはしません。描く線を選択します。何を描こうか?全てではないのです。色も同じです。自分が見るものを表現するのです。私は余り技巧的にはならないように気を付けていますし、実はそれは技巧の問題ではなく、概念の問題なのです。私は概念にもとづいて仕事をしていると言えます。色彩というものは、種々の色同士の関連性のなかで認識されるもので、一色だけで存在するということはあり得ないのです。その色が近隣の色と結びつく関連性が非常に重要な役目を担うのです。具体例を出せば、<タンタン>では、その青いセーターはいつも同じ青色で、夜だけ色が変わります。ですから、色は2色、いや正確には、<タンタン>にあっては、この青色を表現するのに2つの方法がとられているといっていいでしょう。私の場合は、私の主人公が青いセーターを着ているとしても、彼がいる背景に従って、その色は決して同じ青にはならないのです。そこには関連性という問題が生じるからです。現実の世界でも全く同じことがいえます。我々の脳は直ちに反応して、こう言います。<いつも同じ上着だ。だって上着の色が変わっていないじゃないか>と。しかし、それは間違いです。思い込みでものを言っているのです。真の感覚に従えば、即ち我々が客観的であるならば、色は変わるのです。もし貴方が戸外に行くならば、色は同じではないのです。些末的なことに入り込んでいるようにみえるかもしれませんが、実はそうではなくて、一種の全体像に関する話なのです。貴方が灰色のシャツを描き、黄色の背景にそれを置いてごらんなさい。その灰色は、紫の背景に置かれた時と同じようには感じられないでしょう。
 
フラン・パルレ:少しずつ、貴方の主人公はチベットから遠ざかっていきますね。
コゼ:はい、私は話が堂々巡りしないように心掛けています。
 
Cosey à Tokyo
© Franc-Parler

フラン・パルレ:シリーズ第15巻で、何故ジョナタンは日本にやってきたのですか?
コゼ:私にも同様なことが起こったのです。25歳の時、私はチベットに情熱を燃やしていました。他の人たちが、ウエスタンやSFに有頂天になるように。でも、チベットはその当時入国できませんでしたから、外国人に開かれていた唯一の地域、ラダックまで行きました。1976年のことです。ラダックへ行くのに、デリー、シュリナガールを通って行きました。この地域で、面白いことが山のようにありました。魅惑されたのは、ただチベットだけではなく、やがて、日本でした。いつか日本に行かなくてはと思っていました。日本へ惹かれた最初のきっかけは、たぶん、両親が家に飾っていた広重の複製の版画だと思います。両親はさほど日本通の美術愛好家ではありませんでしたけどね。今で言ったら、ニューヨークの写真を家にかけているようなもの、でも、はっきりと人がどんなものを家にかけているか知りませんけど。ともかく、家にこれらの絵がかかっていて、私としては、何の絵かよく判らなかったけど、何しろガキでしたからね、10歳の。バンド・デシネの抜粋かなと。黒い線で縁どられ、色の表面は平板でしたから。ただ素敵だなと思っていました。
 
フラン・パルレ:貴方はご自宅のスタジオで仕事をなさるのですか。それとも旅行中にデッサンを描かれるのですか?
コゼ:家のスタジオで仕事をし、旅行中には沢山の写真をとります。写真は記録としてはるかに完璧です。スケッチもしますが、私がスケッチをするのは、むしろ楽しみのためです。数枚のスケッチなら使えますが、それは稀なことです。
 
2014年3月15日
インタヴュー:エリック・プリュウ
翻訳:井上 八汐
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