モーリス・ゴドリエ:文化人類学の時代歴史学者フェルナン・ブローデルの下で研究チームの旧リーダーを務め、クロード・レヴィ=ストロースの第一助手であった文化人類学者のモーリス・ゴドリエは、社会的階層を持たず、政府も持たないと位置づけられたニューギニアのバルヤ(Baruya)族の研究をした。彼の一連の研究は実り多い成果をもたらした。フラン・パルレ:少しだけ煽るような発言をしますが。現時点では、文化人類学は、フランスにおいて何の役に立っているのですか?モーリス・ゴドリエ:いやいや、それは多くのことに役立っていますよ。たとえば刑務所の暮らしに興味を持っている文化人類学者も居ますし、イラクに興味を持っているのも居ます。つまり完全に政治的戦略上の拠点に、ですね。オセアニアに居る、もちろん私のような文化人類学者も居ます。その地域には多くの事が起こっています:この地域の民族における全体的なキリスト教化など。このように、実際はフランスやヨーロッパ諸国の文化人類学があり、またヨーロッパ諸国ではない、と言える諸国、残りの全ての国々の文化人類学がある、といいましょうか。フランスの強みとしては、シベリアやカザフスタンをよく知っているグループが居ます。要するに、一般に全く知られていない所がある、ということを言っておかなければなりません。一般の人はスンニ派がどういうものか、シーア派がどういうものか、知らなかったのです。それから、あなた方が御覧になったようなイラク戦争や他での戦争で全てが爆発したのです。だから、そこで文化人類学者の出番なのです。それにまた、文化人類学においては、歴史学者なしでは仕事ができないのです。なぜなら現在というのは、それは一つのものですが、現在はしばしば過去から続いているもので、その過去はとても昔、遠い昔なのです。だからスンニ派とシーア派の決別は数世紀にも、ほとんど預言者ムハンマドの婿の時代くらい(7世紀)まで遡ります。それが面白いのです。今日では、そのような複合性に向き合っているので、人々の頭の中に何が起きているかを理解するにはその観点から物事を見る必要があります。それと同時に、歴史を遡る必要があります。なぜならこれらの全ての表象や制度は昨日生まれたのではないからです。フラン・パルレ:現地でのそういった研究からどんな成果が得られたのですか?モーリス・ゴドリエ:膨大な科学的な成果です。まず血縁関係の研究です。血縁関係とは人間の発明なのです。それは私のような人間にはとても面白いものでした。父系社会や母系社会など様々な社会で生まれ、存在した血縁関係の有り様を比較している者にとっては。それから私は、今やニューギニア全土で実際には消滅してしまった大人への通過儀礼に立ち会うことが出来たのです。つまり、古い宗教や政治の世界はまだ存在し、生きていたのです。だから私は通過儀礼に参加する事が出来たのです。次に、私は長老達とともに、彼らは皆、石器を使っていたのですが、私は彼らとともに再生、新石器時代の技術を再現できた、と言いましょうか。つまり新石器時代の扉は私の前で閉まったのです。だから私は驚くべきチャンスを得たのです。私は、私が訪れるほんの数年前にヨーロッパ人たちが振りかざしていた鋼の製品を使う為に、ちょうど石器を放棄したばかりのある民族と出会ったのです。私は長老達とともに、昔の経済構造、生産の形を再構築することが出来たのです。つまりそれは人類の歴史に立ち会うことでした。人類の歴史は、これなのです、多くの発明なのです。そしてそれら(の発明を考察する事)を忘れたならば、人類として、種としてどこからやってきたのか理解できません。この地域集団が人類の深い歴史や異なる歴史を教えてくれるのです。あなたに申し上げたように、私は沢山、沢山のチャンスを得ました。それに彼らの文化を発明したのは私ではなく、彼らがそれを生み出したのです。彼らの文化はもちろん彼らにとってもとても興味深いものでした。でもある文化人類学者にとっては、複数の社会、歴史的観点、それが異なる大陸でどのように発展していったか、をちょっと比較する楽しみを得たことは、良い事だし、想像以上のことです。さらに文化人類学者であるということは、始終自分で行動するということです。この仕事は苦行で、難しく、孤独な省察と分析の仕事です。感情移入の仕事でもあります。もしあなたが一緒に暮らしている人々を嫌っていながらそこに留まっているなら、彼らのことは理解出来ません。それは無理です。これで私達の責任のスケールと考えられる成果が少しおわかりになりますね。もちろん、この仕事は多くの年月を要します。現地に長く留まり、体系的なアンケートを採取し、人々に受け入れられる必要があります。なぜなら毎日彼らと一緒に彼らの庭を測量しに行っては、彼らの邪魔になるだろうからです。それを実行するにはその集団から受け入れられていなければなりません。絶対に強制はいけません。そこには多くの主体的で人間的な資格を伴うのです。フラン・パルレ:あなたは神聖観念について面白い概念を明らかにされましたね…モーリス・ゴドリエ:モスやレヴィ=ストロースは平等に与え与えられる関係について力説していました。それはバルヤ(Baruya)族において存在していました:ある女性を嫁がせて、そこからも女性を嫁にもらう。つまり縁組み、婚姻関係を結ぶ、ということですね。まあ、そのことがレヴィ=ストロースの興味を引いたのです。モス(が提唱したの)は、同じような贈与手段ではありませんでした:それに答えられないほど、多くを与えることです。その贈与は不平等を生み、ステータスを守るものです。あるいはそうすることが、その社会においてある種のステータスを得たいと表明する手段になる、またはステータスの再生になるのです。従って、それは競争に耐える贈与手段であり、戦争なのです。それは贈与の戦いなのです。次に(文化人類学者は)皆、商業上のやり取りと贈与は対立させていました。なぜなら、商業上のやり取りにおいては、売り物は売り手の所有でなくなり、それを買った人のものになります。一方、贈与においては、あなたがある物、何かを譲渡すると、あなたが贈ったという事実は、あなたがその贈った物の中に存在するということになります。従って、それは譲渡されたと同時に、それは譲渡されていないのです。なぜならあなたがそこに存在しているからです。そして言うなれば、あなたの贈り物は義務を、先方もまた(あなたに)贈らなければならないという義務を生むのです。贈与を拒否するということは、それは大変ネガティブな行為です。ところで、私はその考えから大分離れたところに居ました。なぜなら私が示したのは、贈与しない物があるということだったからです。売らないものがあるということです。何故にそれらを手許においておき、何故それらを売ったり、ご近所にあげたりしないのでしょう?何故ならそれは後世に伝える為に残しているからです。従って、社会学的、人文学的分析において少しおろそかにされたこれらの物のカテゴリーを研究しなければならなかったのです。それは少しではなくて、とてもとてもおろそかにされていました。それは贈る物ではなく、買う物でもなく、伝える物であり、従って私は神聖な物と呼んでいるのですが、この実に重要な意味合いを考えると、私が分析している神聖なる物は、単に宗教的なものだけではないのです。簡単に考えると、頭の中に浮かんでくるものは、それはもちろん宗教的なものです。ところで、私は民主主義の国家の憲法は、商品ではなく、憲法は買うものではない、ということを示しました。投票権を買うとか、選挙時の買収行為は、これは考えられます。憲法を別の民族に与えることは出来ませんし、それは意味がないことです。憲法を制定し、それを世代から世代へ伝えて行くのです。できればそれを改善しながら。だからそれは宗教でいう神聖なものと同等であり、しかしながら政治的なものであります。そこで、私は神聖な物というのは日常の観点において宗教的な物の域を超えているということを示したのです。世代間で引き継がれるもの、人々の共同生活を形作るもの、共に存在するためのノルマのようなもの、これが恒常的なアイデンティティの根幹となっているのです。だから、(それを示した私の)作品はとても重要なものでした。「贈与の謎」は日本語、英語、それから多くの言語に翻訳されましたし、中国語訳も出ました。なぜなら中国人達は私に北京版の為に序文を依頼してきたからです。それから次の重要なことは:未開民族と呼ばれている人々について、彼らは政府を持たず、社会的な階級を持たず、すべては血縁関係で動いているのでそう呼ばれるのですが、言われていることは間違いだと証明しました。私が本から得た知識や、いまだに教科書や政治家達の間で繰り返されていることは、間違っていると。社会を作っているのは血縁関係や家族ではないのです。家族はあなたがあなた自身であることの一助になり、それはどこでも同じことですが、政治と宗教、要するにヨーロッパでいうところの政教ですが、それが人間の集団に統治権の形を作っているのです。そもそもは領土やその資源、そしてそこの住民における統治権の確立なのです。常識の中には、もはや明白ではないものもあるのです。私は、血縁関係が未開と言われている原住民においても、(欧米などの)諸国においても社会の基盤ではないということを示しました。他の諸国においては簡単なことです。それを政府と言っているからです。政府が出現し、従って政府が大切であり、政治が大切になる、等々。しかし実際、部族社会においても、その他においても、社会を形成しているものは、人間の集団にとっては、統治権の形を生み出し、それを肯定することなのです。統治権とは、権力の制度ですが、神々や、自然の精霊、祖先と関連しています。だから常に人間によって発明された権力の制度には宗教的側面があるのです。もちろん、質問をなさりたいかもしれませんね。例えば政府と宗教の分離についてですが、フランス革命以降、宗教は完全に独立しています。あらゆる宗教が認められ、それは個人的な事柄になっています。そして政府の宗教はありません。フランスでは、政府の宗教としてある宗教を支持することはありません。ギリシャのように正教会が政府の宗教という場合や、他のいくつかの国々における場合とも違います。でも大まかには、政治の非宗教化が行われたのです。それは他の社会、とくにイスラム社会では理解することが時には難しいことです。なぜならシャーリア(イスラム法)という神の法律が、法律の基盤なのですから。従って、政治と宗教についての研究をして、考証という方法で家族や血縁関係について言われていたことを退ける、といったこの一連の仕事はとても重要だと言ってもいいかもしれません。また経済においても、形成の方法は、マルクス主義者と自由主義者にとっては、同じこと、社会を解明しているのは経済なのです。それは間違っていますし、全く意味のないことです。経済は社会を創るものではありません。それは富や生活の糧を生むことができますが、社会とは市場よりもっと複雑なものです。(市場には)商業用でない製品の形式がひとつもないのです。従って、社会を解釈する中心、戦略として、再び政治と宗教に戻ってくるのです。フラン・パルレ:現在、フランスで大きな議論になっているのは、フランス人のアイデンティティです。フランス人であるということはどういうことですか?モーリス・ゴドリエ:そうですね、それは本当に興味深いことです…歴史的にも社会的にも面白いのは、何故いくつかの政策があえてこの質問を受けているかということです。つまり、今はまだはっきりしていないのです。でもその質問に対する答えは、私の目には、とても明白で、国のアイデンティティを形成するのは、公民権であり、この公民権が私達の社会では、すみません、こんなにナイーブになって、でも、それが全員で分担している統治権であり、市民の統治権なのです。それは政治的に創られたみんなの、みんなのための関係です。それは義務を伴う権利です。義務はしばしば忘れますが。私にとって、この質問は、してはならないものでした。私のような人間には。何故その質問が出たのか私にはわかりません。それはフランスの政治の背景です。何故その政策を打ったかというと、勿論、そこには移民問題等があるからだと私は思います。それにおそらく選挙の投票日において、それが考えを扇動するかもしれません。でもフランスにおける答えは、とてもクリアです。2010年1月インタヴュー:プリュウ・エリック翻訳:粟野みゆき
モーリス・ゴドリエ、文化人類学者
投稿日 2010年1月1日
最後に更新されたのは 2023年5月23日