フラン•パルレ Franc-Parler
La francophonie au Japon

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バルバラ・クロース、現代アーティスト。
投稿日 2015年9月1日
最後に更新されたのは 2023年5月25日
バルバラ・クロース、永続性と再生のはざまを模索する現代アーティスト。
 
「旅とその出会いは、芸術家の魂を育む」とは、よく言われることだ。ケベック州はこのたび、州のクリエーターの一人、バルバラ・クロースに、数か月に亘る東京での滞在を提供した。この文化交流により、彼女は、東京の広い空間、そのエネルギー、刺激といったものを体験することになるだろう。
 
Barbara Claus

フラン・パルレ:貴女は今東京にお住まいです。ケベックから東京にいらっしゃるまでのいきさつをお聞きしたいのですが。
バルバラ・クロース:私が今住んでいるのは、ケベック州の所有する在外レジデンスです。ケベック政府およびケベック文化省管轄の芸術・文学評議会は、国外に6つのレジデンスを持っています。ニューヨーク、ベルリン、パリ、東京、ロンドン、ローマに各々一か所あります。選考されるには、プロの芸術家であること、少なくとも10年の経験があること、そして、願書、企画書を提出しなくてはなりません。これらのレジデンスの多くは、最低10年の経験を積んだ人を対象とし、特殊な点として、映像芸術、演劇、音楽、文学といった専門分野の人々に提供されます。従って、競争が激しく、獲得するのがとても難しいのです。他分野の専門の人達と一緒に審査されるからなのです。日本でコンサートを開く音楽家が選ばれることだってあるのです。だから、全く運しだい、選考されるかどうかは全くわかりません。東京にこのレジデンスが出来たのは、確か2008年だと思いますが、それ以来、「応募しなくちゃ」と私はいつも思っていました。そして、2度願書を出しました。そう、今回は2度目に当たります。
 
フラン・パルレ:今回の貴女の“不意打ち”は何だったのですか?
バルバラ・クロース:わかりません。志願者がどう受け止められるか...だと思います。私はかつて、ケベック州の芸術・文学評議会の審査委員だったことがあり、従って、その会がどのように組織されているか多少知っています。また、多分野にまたがる芸術家選出の審査委員をしたこともあり、それは、まさにコンセンサスの問題、グループ、話し合いの問題です。作品をじっくり見て...更に、意見を交換し、基準に従い、私から見れば、非常に主観的といえるのですが、クオリティという基準に従って、最優秀の人を一人或は複数選出するのです。
それから、この賞には違った特典もあります。これらのレジデンスは、芸術家に対し、仕事をする為にのみ提供されるわけではないのです。英気を養うためということも出来るのです。特別な企画を立ててもよし、また、「私は、インスピレーションを得るために東京に行きたい、街を眺め、文化を吸収したいのです」と言うことも出来ます。事実、ここにやってくる人たちの動機は様々です。
 
フラン・パルレ:貴女の場合は何ですか?
バルバラ・クロース:語れば長い話になります。そうですね、或る頃より、私は日本に行って住みたいといろいろ奔走しました。京都や、もっと田舎にある団体に志願の書類を送ったりしました。それはむしろ自主管理センターで、幾つかの宿泊施設を持っていましたが、有料でした。要は、日本には沢山の宿泊施設があるのですが、その大部分は有料になっています。ここは、ワンルームマンションで、奨学金があるので、日本にとても来やすいのです。日本はかなり生活が高くつきますからね。1992年に、私が実際に目論んだこと、ですから、だいぶ昔の、まだ若かりしアーチストであったころの話ですが、ケベックで、ある展覧会を催しました。「La chambre blanche(白い部屋)」という画廊で、1人の日本人アーチストと展示場をシェアし合いました。この短い出会いが、私にとてもとても鮮烈な思い出を残したのです。彼は、作品をその場で組立てたからなのです。その画廊はL字型をしていて、私は小さい部屋をとり、彼は大きい方の部屋を使いました。彼(田中秀穂)は、ファイバー、繊維アーチストだったのです。それで、沢山の糸、何百という糸を使って、空間にオブジェを作制しました。それに、彼の仕事のやり方は何かユニークなところがあって、私はすっかり魅了されました。それで、私は呟いたものです。「いつか、彼に会いに日本に行かなくては」と。でも、1992年の事ですからね。もうずいぶん前の話になりました。それから、映画が好きな私は、もちろん、若かったころ、小津作品はすべて鑑賞しました。その頃、日本の白黒映画を沢山観ました。日本文学にも憧れ、日本の建築にも魅了されました。日本文化に対しかなり広い領域に興味をもったのですが、結局今まで日本を訪れたことはありませんでした。ですから...
 
フラン・パルレ:貴女はさっき白黒の事をお話になりましたね。それは、貴女の作品の多くに再現されているという印象を私は持つのですが。
バルバラ・クロース:はい、私は、白黒作品を多く制作しています。ベルギーのラ・カンブル芸術大学では、シルクスクリーンの技術を習得しました。私はベルギー出身なのです。そして、今から25年前に、修士号をとるために、ケベック州に行きました。実は、ベルギーで勉強を終えた時には、すでにほぼ修士号に匹敵する資格をもっていましたので、どちらかというと、ケベックへ行って住みたいというための口実でした。ああ、そうそう、シルクスクリーンの修得の話でしたね。1990年代には、写真を沢山撮り、オブジェもやり、大型サイズの作品、壁画を試みました。修士号を得た後の1990年代は、かなりラッキーな時期が続き、色々な奨学金を得たり、様々な展示会に招待されたりしました。私自身、自分の仕事の売り込みに奔走しました。それから、少々落ち込む時期が来まして。そして今、再スタートといった気持ちです。プライベートな人生について一々詳しくは話す積りはありませんが、一時、会社を作ろうと試みたこともあるのですよ。アーチストとして生きるには、つねにジレンマとの戦いですから。そうですね、私はアーチストとして生まれ、アーチストとして死ぬのでしょう。そう、もっと別なことも色々しようと思えば出来るのですが、究極のところは、きっと、それが長続きするか、それで充足感が得られるかという問題になるでしょう。
 
フラン・パルレ:アーチストとして、貴女はとても哲学的に仕事に取り組んでいらっしゃいますね。
バルバラ・クロース:そうかもしれません。一過性、時間、仕事に於ける時間との関係、緩慢さ、工程といった問題提起は大切なことだと思います。私は、自分の作品作りに於いて、単に一つの物を作るということではなく、多少ともより大きな、より普遍的な価値あるものとして取り組みたいと考えています。ですから、実際、物作りの難しさを感じます。
 
Barbara Claus, je suis trou

フラン・パルレ:難しい? それはどういうことですか?
バルバラ・クロース:即ち、私は物をため込むことが好きではないからです。ですから、一つの絵を描き、後に保存するなんてことは出来ません。目下保管しているのは、紙に描いたデッサンだけです。実際、私の大部分の作品は、直接展示場の壁面上にその場で仕上げられるので、終わった後は、消えてなくなってしまいます。その上を覆われるか、塗り直しされるかです。ここに貴方にお見せする写真は、私が壁画と呼ぶもので、ジプス即ち石膏で出来た大パネルに制作したものです。それは、4か月借りた広い展示場の中にあります。かなり大きな場所を入手出来、そこで、幾つかのオブジェを組み立て、数週間その上で仕事をしました。そして、その後は消えて無くなりました。
 
Barbara Claus, un très vieux mur

フラン・パルレ:貴女は作品に、大いに文字を取り入れていらっしゃいます...
バルバラ・クロ-ス:ええ、幾つかの作品には。少しだけです。でも、中断するのではなく、これからも続けようと思います。私は“Je suis(私は)”とか、“Je suis vieille(私は年をとった)”と言った文字を使いました。そうすることで、マンネリ、現代アートに於けるマンネリ、時の移ろい、老化現象といったことを言い表そうとしたのです。それらは、50歳を過ぎたアーチストが、再認識し、体感するテーマの数々なのです。いつも前面で脚光を浴びる新世代の人達と共に働いていますとね。西洋社会で生きるあの難しさだと思います。日本ではどうか知りませんが。それは、若者と年をとった者達との間に存在する時の推移ということ。即ち、老化現象という概念です。あの「私は年をとった」という考えの中で、私は自分自身に対し、ちょっと皮肉ったのかというと、そうじゃない、私は皮肉という言葉が嫌いですし、そうじゃないのです。ある壁画を作制し、そこに、手書きの「私は年をとった」という文字を沢山繰り返し壁面に書く時、次いで、それらの文字群が、一個の蛍光灯で光る文字「私は年をとった」と対峙して、一種の浮雲のようになって現れる時、私の意図には、恒久性と一過性というあの観念があるのです。 蛍光文字の方は永遠に灯っていることが出来ますが、手で書いた文字群は消えてなくなります。私が壁にチョークで書くと、一部屑となって下に落ち、展示が終わると、私はそれらの文字群を消します。でも、蛍光文字の方は、私がずっとそれを持っています。ですから、人は年を取り続けるということと、再び、時は移り変わるというあの観念に到達するのです。そして、とりわけあの企画の時は、人々を週末毎に私のところに招いて、一緒にお茶しながら、これらのテーマについて話し合いました。とても話が弾み、本当に面白かったです。
 
フラン・パルレ:画廊に招いたのですか?
バルバラ・クロース:そうです、そうです、モントリオールのある画廊です。「私は年をとった、私は死んだ、私はもうだめだ」といったテーマについて討論しようと、様々な人達に呼びかけました。でも、シャルリエブドのあの事件(2015年1月7日発生のパリでの襲撃事件)が起こって以来というもの...あれはとてもショックなことでした。私は森の中に住んでいて、インターネットは故障し、雪が吹雪いていましたから, 夜になって、なんとか会社にかけあって、インターネットを修復しましたが、パナボラアンテナに雪がすっぽり被っていたのですね。 インターネットを開いて、あの事件を知り、とてもショックでした。私は「私はシャルリ」と書きかけましたが、インターネット上で、あのメディア旋風が起こっていたことは知らなかったのです。
 
Barbara Claus, livre je suis foutue

フラン・パルレ:貴女の「私は」シリーズの方が、すでに先にあったとういうことですね。
バルバラ・クロース:そうです。すでにそれはあったのですが、世界中で起こっていたことと同時進行していたということです。私がショックだったのは、若い頃、シャルリエブドを愛読していたからです。母もその雑誌を今でも読んでいるはずです。それは、ケベックに来る前の私の青春時代、娘時代と言ってもいい頃の、人生の一部でした。それは、表現の自由だったのであり、彼等は芸術家なのですから。あの出来事には大いにショックを受けたのですが、事件後、世界中を席巻したメデイア効果によって、完全に事情が違ってきました。 私自身、これから先、「私は」シリーズを使うのか?と自問したものです。ですから、しばらくの間それを用いていません。でも...ともかく、全然違った捉えられ方をされているのですから...あの「私は」シリーズの考えが、シャルリエブド事件のせいで、世界中に全く違った風に解釈されているのですから。
 
フラン・パルレ:日本での滞在が終った後、何か計画をお持ちですか?
バルバラ・クロース:ケベックにある森の中の私の小さな家に戻ります。モントリオールの北部、車で1時間15分のところに、アトリエ兼住まいを持って以来、ほぼ2年、いや、2年半になりますから。それに、私は、そこをこれ程までに好きになろうとは思ってもいませんでした。ここ(東京のケベック州政府事務所)からや、州政府のレジデンスからの眺めと、大きな窓という窓から木々を見下ろすあの眺めに思いを馳せる時、この大都会に住んで、時としてそこを懐かしく思うのです。色々自問し、多くの事を考えます。人口5千万、3千万の人達が住む町で、人々はどうやって暮らせるのか見てみたいと思います。そして、自然、緑、環境との関係も考えます。福島で起こったことも一緒に。あのことは、私も大変気がかりでした。とりわけ、2011年3月に福島で起こったことです。東京はとても静かな、とても、とても静かな街ではあるのですが、あの森の沈黙の静けさを遠からず取り戻したいと思います。でも、あの東京の消防自動車は別ですよ。あれには、時々ビックリしています。
 
2015年7月
インタヴュー:エリック・プリュウ
翻訳:井上八汐

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